人々の集う場所にAEDを!

デフィブリーの会
    

『忘れられないあの日』 -渡邊英二郎 2002/10.
『42分もの心肺停止からの生還』  -川口和恵 2004/10.15


『忘れられないあの日』 -渡辺英二郎 2002/10.
 
 先日、私の習っている音楽の先生のコンサートに行った。開演から30分後、快調にとばして、コンガを叩きまくったその直後だった。へなへなと座り込んで倒れた。『あの親父何をふざけてんの?』と思いきや、全く立ち上がる気配がない。私はいきなり舞台に駆け上がり、顔を見ると真っ青。呼んでも返事なし。頚動脈には脈なし。

 心停止! 即刻心臓マッサージを始めた。思い切り胸を押しまくると、「無茶をするな?静かに寝かせて、救急車を呼べ!」と誰かが言った。内心、『馬鹿野郎!』と思いつつ、「俺は医者だ! 誰か手伝ってくれ。」と叫んだ。病院外で心肺停止に遭遇したのは初めて。まして師匠の急病。周りの人たちも師匠の知り合いだらけである。もう自分は完全にパニックだった。

 その直後、呼吸停止。そこに現れた女性。「私は看護士です。」心マを交代し、私は『mouse to mouse』で人工呼吸を開始。15分後、やっと救急車が到着。「送管の準備!」「ありません。」「何? ラリンジャルマスクは?」「救急救命士の乗った救急車にしかありません。救急車要請の通報で心肺停止の情報がありませんでした。高規格救急車は向かっていません。」
 点滴もなければ、挿管セットもなし。あるのは酸素ボンベとアンビュウだけ。『くそー!これじゃー助かる者も死んじまうぞ!松戸市の救急車は何でこんな不十分な装備しかないんだ!?船橋ならドクターカーが来てこの場で治療ができるのに!』

 必死で心マ、人工呼吸を続けながら救急車に同乗。病院に着いたのが発症後30分。主治医曰く、「VTです。まだ戻りません。奥さん、もうほとんど助かりません。心臓が動いたとしても意識の回復は難しいでしょう。覚悟をしておいてください。」

 『そうだろうか。もうだめか。心マも人工呼吸も失敗だったのか? うまくできたなら戻らないはずがない! 医者のくせに自分は何をやってるんだ!』と、放心状態になったその時、「心拍再開しました。」 ヤッター。病院到着後さらに約15分が経過していた。

 さらにその後、「手も動かしています。呼名に反応します。」ウム、心肺だけでなく脳も回復するかもしれない。この瞬間、久々に心の底からこみ上げてくるものがあった。『医者になって良かった。』近くに医者がいなければ師匠は即死だったにちがいない。

 結局、心電図では心筋梗塞。心カテでは#6の99%狭窄。即刻PTCA、stentingが行われ、成功。師匠は一命を取りとめた。翌日には完全に意識も回復したとのこと。


興奮して眠れない夜、こんなことを考えた。
 #1.なんという偶然なのか。師匠が倒れるのを目の前で見るなんて。
 #2.医者になって良かった。そうでなければ何もできなかっただろう。
 #3.でも、ちょっと違う。医者でなくても救急蘇生術はできるはずだ。
 #4.要は教育だ。誰でもとは言わない。少なくとも医療関係の仕事に就く人がすべて救急蘇生
    術を知っていれば、多くの命が失われずにすむだろう。
 #5.全国でACLSなどの講習を行うべきだ。
 #6.さらに船橋式のドクターカーを全国に配置すべきだ。
 #7.救急車への通報は、落ち着いて。心肺停止の有無を正確に伝える必要がある。
 #8.AEDさえあれば、たとえ医師がその場にいなくても、もっと早く確実に治療ができたはず 
    だ。日本でも早くAEDを普及させないと、助かる命も助からない。

舞台に駆け上がり、CPRをした記憶が何度も何度も頭に浮かんで、今夜もまだ眠れそうにない。

渡邊 英二郎(千葉徳洲会病院 外科部長)

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『42分もの心肺停止からの生還』 -川口和恵 2004/10.15
…本当に奇跡でした。

2002年10月18日(土曜日)午後7時、

 例年通り、‘川口日出旺&ニューセッションジャズオーケストラ’のコンサートが始まり、5曲目も中ごろの出来事でした。会場のお客様も、ステージの川口の異変に気がつくのにそれほど時間はかかりませんでしたが、皆様が気がついた時には、すでにステージの上で心臓マッサージをしている渡邊医師の姿がありました。心筋梗塞で心肺停止の状態だったのです。
会場は急にざわめきだし、「救急車だ救急車を呼べ」「さわるな動かしちゃダメだ」「俺は医者だ」
と、大声が飛び交いました。

 ステージで倒れ救急車が出発するまで20分間。
 私立病院まで搬送されるのに さらに10分間。

 この間、渡邊医師のまさに命がけという言葉さえ消し飛ぶようなすさまじい心臓マッサージが続けられました。
しかし、川口の手足は冷たく硬直し異常事態であるということは誰の目にも明らかでした。
私はこうした事態を不思議なほど冷静に受け止め、お客様にわざわざコンサートに起こしていただいたのに、こんな事になり申し訳ないという気持ちになったのを覚えています。

 病院に着き手当てを受けましたが心肺停止のまま40分が過ぎました。
担当医の方の「もう助かっても脳のほうが無理かもしれない」という言葉も納得できる状態でしたので、子どもへ連絡をと外に出たときのことです。

 ‘事実は小説よりも奇なり’本当に奇跡が起きたのです。
渡邊先生や偶然コンサートに来ていた伊藤婦長他、周りの方々の懸命な祈りと対応のおかげで川口は生き返ったのです。
42分間もの心肺停止からの生還 ・・・ 本当に奇跡でした。

 その瞬間誰よりも安心したのは渡邊医師だったと思います。
疲労困憊しながらも、ほっとした渡邊医師から最初に出たのが、
「DFさえあれば、DFさえあればこんな心配することはなかったのに!!」という叫びのような言葉でした。

 私は、川口の生還の喜びと同時に、その言葉が強く心に残りました。
その時は何の意味かわかりませんでしたが、その後DF(除細動器)という器械さえあれば、渡邊医師が命がけでしてくださった心臓マッサージの代わりになり、川口のような事態になった場合でも助かるチャンスを増やせるということでした。

 川口は、命を守る医師というプロがいたからこそ助かりました。
そして、もしDFという器械で多くの人が助かるのであれば、このDFをいろいろなところに設置する活動はできないか。これこそが命を助けていただいた私たちの使命と思い、この‘DFの会’を発足させていただきました。


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